声がする。
優しい声が。
(ーーーーアリス)
私を呼ぶ声。何度も何度も繰り返し。
(ーーーアリス、アリス)
今にも泣きそうに私を呼びとめる声。これはペーター?
(ーーアリス)
優しく私を呼び戻す、姉さんの声。
帰らなきゃ……ついに来た長い長い夢の終わり。
目を覚まして元の世界に戻る時が来た。
ずっと待っていた喜ぶべきことのはずなのに、どうしてこんなにも苦しいの?
(ーーー夢の先には何もない。夢から覚めたら現実だ)
最初からわかっていたことなのに、そのつもりで楽しんでいたはずなのに。
(ーーーアリス)
引き裂かれる痛みに身体を震わす。
どこまで私はずるい子なんだろう。帰らなきゃいけないのに最後の最後で帰りたくないと思うなんて。
そんなこと思うことすら、許されないのに。
元の世界に帰ること以外に、私が選べる道なんてない。わかっている。
「ーーーアリス」
それなのに。
直接耳に響いた私を引き止める声に、嗚咽が漏れそうになる。
泣くことなんて出来ない。そんな汚いこと出来ない。
ずっと、その時が来たら帰るって言っていたのは私なのに。
今になって、目覚めたくないなんて。
この場所から、この世界から、帰りたくないなんて。そんな事、今更言う権利なんてないのに。
「ーーーなら、帰るのは今じゃなくてもいいんじゃないか?もう少しだけ夢を見ればいい」
いつもと少し違う夢の世界で、現実への扉を背中にして私を見つめるナイトメア。
優しい夢魔に抱きとめられて、あまりにも甘やかな囁きに流される。
「君が望めばいつまでもこの夢は続くーーー目覚めるのはまだ先でいい。私がこの眠りを守ってあげよう」
「だけど……姉さんが…姉さんが待っているのよ」
もっともなことを言いながらも、抗いがたい誘惑に心は安堵している。
ナイトメアが眠らせてくれるのならば、私はまだ目覚めなくて済む……まだ帰らないでいられる。
(……なんてずるい子)
帰りたくない言い訳をナイトメアのせいにしながらも、抱きとめられた腕を逃がさないようにしっかりと握り締めているなんて。
「いいんだよアリス。私が君を引きとめたんだ。君は悪くない…君のせいなんかじゃない。だから安心して眠りなさい。悪いのは私なのだから……」
(違うわ。ナイトメアは悪くない)
「いいや、私が悪いんだ。君を手放せなくなった……眠りの中に閉じ込めてでも帰したくなくなったのは私なのだから………」
(………ナイトメア?)
「ーーーさあ……もう目を閉じて………」
深い夢に誘う柔らかな声に、抗う事もせずに素直に目を閉じた。
私をこの世界に閉じ込める為の優しくて残酷な眠りの檻へと、堕ちていく………ーーー
◇◇◇◇◇
「ーーーつまらぬ」
最高級の紅茶も茶菓子もどれもお気に入りのもののはずなのに、お茶会の席にアリスがいない。
それだけで、こんなにも味気ない。
『余所者はいつか帰るもの』…そう知っていたはずだ。最初から。
そのつもりで、この世界の住民はみな彼女を愛でていたはず。
それなのに。
「アリスがいないと、つまらぬ」
苛立ちと寂しさを混ぜ合わせたビバルディの呟きに、側に控えていたハートの国の宰相が長い耳をピクリと動かした。
「アリスをどこに隠したのじゃ、ホワイト」
そんな部下の覇気のない顔をねめつけながら、ビバルディが問いただす。しかし、その問いかけにいつもの激しさはない。
彼女はすでに答えを知っている。
ただ、その苛立ちを紛らわす為にあえて辛辣な問いを投げかけたのを、ペーターもわかっている。
「元の世界に帰った、というわけではなかろう?お前の時計はまだ動いているようじゃからな」
にやりと笑みを浮かべた上司に向かって、ペーターは眼鏡の奥の血色の瞳を一瞬煌かせた。しかし、すぐにその衝動も消えてしまった。
役持ちでありながら、まるで自己を持たない顔なしのように。
「ーーー彼女は……夢魔の夢の中で眠っています」
変わりに零れたのはその一言。たったそれだけで全ての説明がつく。
アリスがいないわけも、ペーターの覇気がどこにもないのも。
アリスの為だけにこの世界に連れてきて、アリスの為だけに心を尽くし、そしてアリスの為だけに彼は宝物を手放した。
アリスと過ごした幸せだった時間……その記憶を。
アリスがこの世界で幸せになる為に。ペーターが執着した彼女との時間の全てを差し出したのだ。
アリスに忘れられたペーターに何が残る?
けれど、彼女は元の世界に帰ったわけではない。
全てを否定され拒絶されたわけではないから、ペーターの時計はまだ動いている。かろうじて。
「夢魔が……何者にも、何事にも捕らえられることのない夢魔が、アリスに心捕らわれたか」
そんな部下の状態をわかっていながら、ビバルディは繰り返す。繰り返さずにはいられない。
誰もが愛した可愛いアリス。
出来るなら、自分の手で捕らえたかった。元の世界になど帰らせぬよう、この世界に執着しこの世界でしか生きられぬように。
けれど、アリスは差し出された手をすり抜け続けた。手を取ることに怯え続けた。
責任と後悔と憧憬と望み…色々な感情に漂い、自ら苦しみの渦に流されていくのを止めることも出来ずに。
「賢い分だけ愚かな子じゃ。もっと楽な逃げ道などいくらでもあったであろうに」
ペーターが望んだように。この世界の誰もが祈ったように。
アリス自身にこの世界を望んでもらいたかった。この世界を選んで、この世界で幸せになって欲しいと誰もが思っていた…けれど。当のアリスだけが、その思いを信じられなかった。
「今は……ただ、待つことしか出来ません……彼女が目を覚ますのを……」
「そのようじゃな。あやつが特別に紡いだ夢には誰も手は出せん。夢を見ているアリスでさえもな。じゃが、あの子が目覚めた時、お前はどうする?」
夢を見続けながらゆっくりとこの世界に馴染ませる。
悪夢の原因をより深く沈めて、夢の終わりにこの世界を選べるように。それが夢魔の取った最終手段だ。
アリスが見続ける悪夢はペーターが執着した美しくも醜い時間。
「……彼女が幸せになれるなら、僕はどうだっていいんです。たとえその時、彼女の記憶の中に僕はいなくても……」
「……ふん。つくづく報われぬ男じゃな」
「最初から、報われるなんて思っていません」
そう、最初から。この世界にアリスを連れて来た時から、ペーターは『アリス』の幸せのみ願ってきた。自分が幸せになるなんて欠片も思ってはいない。
ーーーアリスがこの世界を選んでくれて、幸せに笑ってくれるなら。
それだけが、ペーターにとっての幸せで存在意義なのだから。
「そのような顔をしてよくも言う。まぁ、よい」
アリスがいてもいなくても、結局ペーターからの答えは同じなのだ。
つまらない表情を隠しもせずにビバルディが一口紅茶を飲んで、途端に顔を顰めた。
「……早く戻っておいで、アリス。お前が居らぬとお茶を飲んだ気がせんよ」
味気ない紅茶をティーカップごと庭に放り投げ、ビバルディはお茶会の席を後にした。
◇◇◇◇◇
いつも陽気な音楽が流れ、色鮮やかな数々のアトラクションを楽しむ人々で溢れる遊園地。
賑やかさはいつも通りなのにどこかくすんだ印象を感じるのは、底抜けに明るいはずの遊園地の住人たちが一様に溜息をついているせいだろうか。
「……アリスがいねーと、つまんねー……やっと懐いてくれたのにさ」
その口調そのままにだらんと力なくたれたピンクの尻尾と耳。
大きな木の枝にだらりと器用に寝そべりながら、気だるげにピンクの猫は愚痴を零した。
猫はボリスだが、アリスこそ猫らしい少女もなかなかいないんじゃないかと思う。
全てを警戒し誰にも必要以上に近づかず、差し出された好意を簡単には受け入れない。
愛されていたはずなのに捨てられてしまった、傷ついた野良猫のような少女だった。
そんなアリスだが、やっと態度が柔らかくなって、笑顔も見せてくれるようになったのに。
やっと、この世界に馴染んで、怖がらなくてもいいってわかってくれたと思って安心していたのに。
「あの子は今、夢の中だ」
「夢?元の世界に帰ったんじゃなくて?」
「ああ。帰ろうとしたところをナイトメアが捕まえた」
「夢魔さんが!?……へぇ……」
突然かけられた声に驚きはしなかったが、その内容にボリスの目がスゥッと細められた。だらりと垂れ下がっていた尻尾もゆらりゆらりと揺れている。
「威嚇するなよ、ボリス」
そんなボリスの変化にゴーランドが苦笑した。
傷だらけで、けれど傷ついた心を決して認めようとはしなかったアリス。頑なに自分を否定して、この世界にいることを責めていた。この世界で愛されて幸せになる資格など、自分には欠片もないと。
そんな彼女の姿に心を痛めていたのは、ボリスだけではなくゴーランドもだ。
『時間を楽しむ』事を忘れていたアリスの心を何とか溶かそうと、遊園地に遊びに来る度に半ば強引に連れ回した。
もちろん、彼女が本気で嫌がった時は無理はさせないようにしていたが。
だから。遊園地に遊びに来る度に、少しずつ作り物でない笑顔を見せてくれるようになったアリスの変化を喜んでいた。
ボリスの言葉通り、まさに『懐いてくれた』と。
けれど、同時に気付いてもいた。
この世界に馴染む程に、アリスはどこか怯えていたのを。
「……アリスはこの世界にいた方が幸せになれると、オレも思ってるんだ。引き止めた方法はどうであれ、な」
「オレだって、夢魔さんがアリスを引き止めた事に文句はないぜ?帰っちまったのより全然いい。ただ、ちょっと面白くないだけで」
「だからってちょっかい出そうとするなよ?…ま、思っても出来ないか」
アリスは今、夢の中の更に夢の中。
役持ちである自分たちがナイトメアに会う事はそう難しい事ではないが、彼が拒否すれば夢からは簡単に弾かれてしまう。
普段、どんなに情けない姿を晒していても奴は『夢魔』だ。夢の世界を統べる者。ナイトメアの意思によって全てが変わる世界に強引に割り込む程の力を持つ者はいない。
実際、それどころではないだろう。
「オレたちが出来るのは、アリスが目覚めるのを待つだけだ」
その目覚めがいつになるかはわからんが…と続けたゴーランドに、ボリスは盛大な溜め息を返した。
再びだらーんと手足と尻尾を投げ出して、恨めしげに呟く。
「……オレ、待つのって苦手なんだよね。でも、アリスは頑固だからそれだけ時間もかかるんだろうなぁ……」
「ま、気長に待とうぜ。アリスが戻ってきた時にはきっと笑ってくれるだろうからよ」
「……それを夢魔さんだけに任せるのも面白くないけどね」
「仕方ねえだろ。オレたちじゃアリスを引き止められなかったんだからな」
「それが悔しいんだよ」
珍しく素直に本音を漏らしたボリスに苦笑して、ゴーランドは彼の頭を乱暴に撫でた。
その気持ちは彼も同じ。正直に言えばナイトメアに委ねなければならないこの状態が悔しい。
それでも。
「……アリスが、これ以上自分を嫌いにならないように意識を誘導出来るのは、きっとアイツしかいないしな……」
自分たちの疼くプライドよりも、彼女の方が大切だから。
これ以上、アリスが自らの内に閉じた痛みに傷つかないように。やっと取り戻した笑顔を再び無くさないように。
「よし!いつか戻って来るアリスの為に、今から素晴らしい曲を作って待ってるか!最高傑作を作るぜぇ!」
「やめろって、おっさん。余計にアリスが戻って来れなくなるから」
「なにおぅっ」
「そーだなー……オレもアトラクション改造でもするか。アリス好みにもちっと穏便で可愛いやつに」
「あっ、テメっ待てっ!ボリス!」
やっとやる気が戻ってひらりと樹から飛び降りて駆け出したボリスを、ゴーランドが慌てて追いかける。
寂しげだった遊園地の気配が、少しだけ元の活気を取り戻したようだった。
◇◇◇◇◇
とても上品とは言えない、いつも賑やかな帽子屋屋敷の身内だけで行われるティーパーティー。
けれど、今はポツリとあいた空席を見つめては、次々に溜息を落としていた。
「……なんで帰っちゃったのさ……お姉さん……」
「……お姉さんがいないとやる気にならないよ……」
「お姉さんが来てくれるから、頑張って門番やってられるのに……」
「お姉さんと真っ先に会えるのが門番の特権だったのに……」
好物のケーキを食べもせずに手にしたナイフで切り刻みながら、双子の門番たちはテーブルの上に突っ伏している。
「門番の仕事はそれだけじゃないだろうが。サボってんじゃねぇよ、クソガキ共」
そんな双子たちを怒鳴るエリオットもまた、いつもの覇気がない。
アリスが目にするたびに、常にウズウズと引っ張りまわしたい衝動を抑えていたふかふかの耳はしゅんと項垂れて、大好物のにんじんケーキを目の前にしているにも関わらず一口だけで食べるのをやめてしまった。
「くそっ……料理長手を抜いたんじゃねぇのか!?今日のケーキは美味くねぇ……」
「にんじんケーキなんて元から美味しくないよ、バカウサギ」
「お姉さんがいないだけで味覚までおかしくなるんだ、ひよこウサギ」
「俺はウサギじゃねぇっ!」
双子のからかいも、それに応じるエリオットも言葉はただ虚しく空回りするだけ。
『ブラッディ・ツインズ』と呼ばれ『帽子屋ファミリーのNo.2』と評される、誰もが恐れるマフィアの面々が、ただ1人の少女の不在に心を沈ませていた。
初めてこの屋敷に迷い込んだアリスを、何も知らずにあっさりと殺そうとした事もあるのに。今ではこんなに大きな存在になっている。
武器も持たず戦う力もない。『余所者』というだけのちょっと珍しいただの少女……だったはずなのに。
「……あんな世界に戻っても、辛い顔するだけなのに……なんで帰っちまったんだよ。アリス……」
アリスが元の世界のことを『好き』だと『大切』だと口にする時、いつだってその表情には無意識のうちに影がかかっていた。
好きなものの話をするのに、どうしてそんな辛そうな悲しそうな顔をするのか理解できない。
無理やりそれらを『好き』なんだと、思い込もうとしているようにしか見えなかった。
だから、この世界にいて欲しかった。
アリスがコンプレックスを抱いている見知らぬ存在より、誰もがアリス自身を好きなのだと。信じて欲しかったのに。
元の世界に戻ってしまったのなら、もう誰も追いかけていくことは出来ない。
余所者はいつか帰るもの……それが当然だったはずなのに。納得できないでいる。
「…………アリスはまだ元の世界には帰っていないぞ」
失望と寂しさと苛立ちが入り混じった辛気臭いお茶会の席で、長い沈黙の後、彼らのボスが気怠げな声を開いた。
「……え?」
「え!?……帰ってないの!?お姉さん」
「本当か!?ブラッド」
その爆弾発言を聞いた途端に、先程までの無気力さとは一変して血相を変えて詰め寄る部下たちに、彼は溜息をつきながら追い払うように手を振った。
「戻る寸前で、夢魔が夢に捕らえたからな」
「ナイトメアが!?」
驚く声に仏頂面のまま紅茶を啜る。彼の気に入りの茶葉のはずだが、いつもなら心躍らせる極上な芳醇な香りと味わいも、今は彼の苛立つ心を抑えることは出来ないらしい。
「奴の夢の檻に捕らわれたら、私でも潜り込めない」
「……そっか……」
夢魔が紡ぐアリスの為だけの特別な夢の檻。
そこは誰もが手を出せない、アリスの余計な感情すら上手く排除されて、ただ夢魔が望む夢を見続ける場所。
「芋虫のくせに、お姉さんを独り占めするなんて許せないよ、兄弟」
「そうだよ兄弟。あんな病弱な芋虫なんかがお姉さんと一緒にいるなんてずるすぎる」
アリスがまだこの世界に留まっていると知った双子たちは、一様に顔を輝かせた後、今度は手出しできない夢魔の変わりにケーキを再び切り刻み始めた。
その瞳にはさっきまでとは違って輝きが戻っている。
喜びと共にその輝きは2人が手にしているナイフの煌めきのように剣呑なのは、この場合仕方のない事だろうか。
「……ナイトメアが眠らせてるならしょうがねえよな。帰っちまってるよかよっぽどいい……」
「………どうせ捕まるのなら、先に私が捕らえておけばよかったな。そうすれば苛立ちも退屈もしないで済んだものを」
安堵した声のエリオットとは対照的に、珍しく苛立ちを隠しきれないブラッドに、エリオットが軽く肩を竦めた。
何よりも退屈を嫌うブラッドが、アリスの事を殊更気に入っていたのは知っている。
お茶会の席で、いつの間にか当然になったアリスの指定席。
それでも。今は空のその席に、いつかアリスが戻って来るのなら。
「そりゃあ、ナイトメアにかっ攫われたのはちょっとは悔しいけどよ……アリスがいい夢を見てるならそれでいいや」
そう言いながらエリオットがオレンジ色のケーキを一口放り込む。絶品のはずのニンジンケーキが、今はほろ苦く感じても。
「……お前にしては随分気が長いじゃないか、エリオット」
「だって、待ってればいつか必ず戻って来るんだろ?退屈な時間に楽しみが出来たってことじゃねぇか」
「ふむ……そう言う事にしておくか。そうだな……戻ってきたら今度こそどこにも行けないように奪えばいいか」
少し気分が良くなったらしいブラッドの瞳がキラリと物騒な輝きを放った。
「そうだよ。お姉さんが戻ってきたらこの屋敷に閉じ込めちゃえばいいんだ」
「そうだね。そうしたらお姉さんは芋虫のところにもどこにも戻れないから、ここにずっといてくれるよ」
彼等のボスのその言葉に双子たちも無邪気に残酷な願いをはしゃぎながら口にする。
欲しいものを力づくで奪うのはマフィアの性だ。
彼等の好意は物騒な願いとなって、空っぽの席をじわりと満たしていった。
◇◇◇◇◇
静かな部屋の中に微かに響くのは、絶え間なく一定のリズムを紡ぎ続ける時計の秒針の囁きと、壊れた時計を修理する僅かな金属音。
いつもは穏やかな静けさに満ちている作業場が、今はどこか落ち着かない。
「この部屋ってさ、こんなに広かったっけ?」
「……元々そう広くはないだろう」
「そうだけど。やっぱりアリスがいないとその分広いんだなぁって思ってさ」
無駄に明るいその声にユリウスの耳がピクリと反応した。そんな彼の反応に、エースが薄く笑う。
平然とした表情を崩さず作業に熱中していたが、やはりそれは装ったものだったらしい。
元々寡黙で無愛想で人付き合いの悪いユリウスの部屋に入り浸っていたのは、今まではエースだけだった。
今の状態が元の状態で、アリスの存在こそがイレギュラーだったはず。
それなのに、この部屋に彼女の姿も声もないことがこんなにもこの部屋の雰囲気を重苦しいものにしていた。
「この狭い部屋に男だけだとやっぱりむさくるしいなぁ。何でアリスを帰しちゃったんだよ、ユリウス」
手入れをしていた剣を放り投げてエースがユリウスにやんわりと詰め寄った。
「……あいつは『余所者だ』。いつか元の世界に帰るものと最初から決まっていた」
「でも、帰さない事だって出来ただろう?」
「………ヤケに絡むな、エース」
苛立ちを隠さずにユリウスがエースをジロリとねめつけた。
元々、誰かに執着するのは珍しい2人だ。
だからこそ、アリスの存在に執着している事を誰かに指摘されるのも、認めるのも、面白くはない。
「そんなにあいつが気になっていたのなら、おまえが引き止めたらよかっただろう?」
「ははっ、何言ってるんだよユリウス。俺にアリスを引き止められるわけないじゃないか」
心底おかしそうに笑われて、ユリウスの眉根が更に深く顰められる。
「俺とアリスは正反対なんだぜ?ユリウスがいるから一緒にいても楽しくいられるけど、2人だとどうかなぁ?」
「……おまえ、前にアリスの事を好きだと言っていなかったか?」
「うん、好きだよ?ユリウスに似て、うじうじと悩んで性格悪いとことか、ひねくれて根暗なとことか苛めたくなる程可愛くて好きだ」
「……エース……おまえは……」
「ははっ。だからアリスには嫌われちゃってるんだよね。最初から俺の事苦手だって言われてるし」
あっけらかんと爽やかな笑顔で言い切るエースに嘘はない。
いくら考えても意味のないものに、自虐的に自らを悩みの淵に迷い込む…アリスもエースも。だからこそ付かず離れず、それでも気になる相手として付き合っていられたのだ。今までは。
そんな友人の歪みを改めて知ったユリウスは、深い溜め息を漏らさずにはいられなかった。
この男に事実を告げたら、一体どんな反応を示すのだろうか……あまり知りたくはないが、黙っているのも後で面倒な事になりそうだ。
「……アリスは元の世界へは帰っていない」
「え?そうなのか?なら、どこに行ったんだ?」
ぼそっと呟いたユリウスの言葉に、エースが心底驚いた顔をした。
「元の世界に戻る途中で、ナイトメアがあいつを引き止めたからな。今は奴の夢の中にいる」
自分の監視の目をくぐり抜け、アリスをこの世界に引きずり込んだ張本人。そのナイトメアが再びこの世界の律を破りアリスを引き止めた。
その事に苛立つと同時にほっとしてもいる。ユリウスは、そんな自分の感情がどうにも許せないでいたのだ。
「へぇ……遂に夢魔さんに捕まっちゃったのかぁ。可哀想なアリス」
一瞬の驚きが過ぎると、エースが放り出した剣を拾い上げ再び磨き出した。キラリと鈍く輝く刀身が剣呑な光を帯びている。
『可哀想』と言いながらもその口調には僅かな苛立ちが隠れている事を、ユリウスは気付いていた。
「折角ユリウスといい雰囲気だったのに、邪魔するなんて。夢魔さんももう少し気を使って欲しいよな」
「それはおまえの気のせいだ。私とアリスはそんな関係ではない」
「えー、でも気に入っていただろ?じゃなきゃ一緒に暮らしたりしないはずだぜ?」
「成り行きだ」
そう、成り行きで一緒に暮らしていただけ。
だが、自分ではアリスを引き止める事は出来なかったし、立場上出来なかった。
本心では悩み苦しむアリスを心配していても、ただ、彼女の決断を受け入れる事しかユリウスには出来なかったのだ。
「……あいつが目覚めたらまた戻ってくるだろう。いつになるかはわからんがな」
だから、今の彼が出来るのは。いつか戻ってくるはずのアリスを受け入れる事だけだ。
ナイトメアのやり方には反対でも、それでも彼女が意味のない事でこれ以上苦しまないのであれば……今は覚めない夢を見ていればいいと思ってしまう。
「ええ〜…、でもそれって、何だかズルいよなぁ。悩んでる事も忘れさせちゃうってことだろ?」
「ズルいとかの問題なのか?」
「そりゃ、1人だけあっさりと悩みを手放されたら面白くないよなぁ」
笑っていても、エースの瞳は彼が手にしている剣と同じくらい物騒な光に満ちている。今、もしアリスが目の前にいたら、躊躇いもなくその剣を彼女に向かって振り下ろしていただろう。
「どっちの世界でも結局はウジウジと悩むなら、この世界で俺と一緒に悩んでいればいいと思ってるんだぜ?悩んでないアリスなんてアリスじゃない」
「……おまえの歪んだ理想をあいつに押し付けるな、エース。あいつはあいつ、おまえはおまえだろう」
苦い口調で嗜めながら大きな溜め息を付き、ユリウスはゆっくりと立ち上がった。
まるで、彼の休憩のタイミングを見計らったかのようにいつも差し出されたコーヒーは、今はない。
久しぶりに自分で煎れたコーヒーの味に、思わず眉を顰めた。
自分で煎れた自分好みの味のはず……それなのにどこかもの足りない。
エースに言われるまでもなく、取り戻したはずの今までの自分の自室に1番違和感を感じているのはユリウスなのだ。
こんな些細な事でさえ、アリスの影が浸透している。
「……本当におまえたちは厄介だな……」
どちらの迷子も、1度受け入れてしまったら厄介なのに振り切れない。
深い長い夢に堕ちたアリス。
いつ覚めるともわからない夢魔の手の夢の中で、今はどんな夢を見続けているのか……
本当の意味で彼女が悩みを振り切る事は、夢魔の手であっても無理だろう。どんなに深く隠してもアリスは元の世界を捨てきれない。
どんなに彼女がこの世界に馴染んでも、彼がこの世界で唯一直す事の出来ない『心臓』を持つ『余所者』である限り。
この世界で唯一、『意味のある心』を持つが故にアリスは悩み、悩み揺れるからこそこの世界の誰もが彼女に惹かれるのだ。
だからこそ、今は深く眠ればいい。
迷いに迷って、2つの世界の狭間で引き裂かれそうになっていた心を癒す為に。
長い長い眠り……例えそれが、夢魔の秘かに育んでいた仄暗い望みを叶えるものだとしても。
「………頑固で意地っ張りなおまえが、それでも眠るのを望んだと言うのなら……」
捕われるのを、夢が続くことを欠片でも望まなければ、ナイトメアがいくら引き止めようと夢の網を仕掛けても、すり抜けてしまうだけ。
この世界に来た時と同じように、この世界を望んだからこそ、最後の最後でアリスは夢に堕ちたのだから。
「……気に食わんが……目を瞑ろう」
いつか目が覚めたアリスが、もう1度この場所で、安らいだ顔でコーヒーを煎れてくれるのならば。
ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して、ユリウスは再び作業に戻った。
まるで、作業に没頭する事で時を縮めようとするかのように……ーーーー
◆◆◆◆◆
「……ナイトメア……?」
「……ここにいるよ、アリス……」
うとうとと微睡み始めた彼女の髪を、ゆっくりと梳く。
「……みんなの声が、遠くで聞こえた気がしたの……」
「……そうか……夢の中でも、彼らには会えるから。安心しなさい……」
「………うん……」
眠りの淵に沈み込もうとしているアリスは、既に身体中の力を抜き横たわっている。
素直に身を任せ、私の膝枕で微睡み出した彼女は、今までで1番あどけない表情をしていた。
先程までは、全てを投げ出し夢に逃げる事を責めていたが、じわじわと彼女を侵食していく心地好い夢にその痛みも既に曖昧なものになったのだろう。
「……さあ……もう目を閉じて……」
「…………ナイトメアは……?」
「ん?」
「ナイトメアにも……夢で会える?」
今にも閉じられそうな瞼を無理矢理開けて見上げてくるアリスに、安心させるかのようにそっとその額に唇を寄せた。
いつかアリスから触れてくれたように、そっと触れるだけのささやかな口づけは、いい夢が見られますようにとのおまじない。
「……私は夢そのものだ。夢の中でも、ここで夢を見ている君からも、決して離れず傍にいるよ……」
小さく微笑んで頷くと、安心したような笑みを浮かべてアリスはゆっくりと目を閉じた。
「……ありがとう……ナイトメア……」
(……ごめんなさい……)
心の中での呟きを最後に残して。
彼女が望んだ……そして、私が望んだ夢の檻の中に。アリスは深く深く沈んでいく。
「……アリス……」
最後の最後で、やっと私の手に堕ちた愛しい少女。
彼女をこの世界に繋ぎ止める為の最終手段だったから、今までは決して夢の中に彼女を引き止める事は出来なかった。
目覚めて現実に戻るアリスを、ただここから見送る事しか許されなかった……見守る事しか。
けれど、今。アリスはここにいる。
「……アリス……本当にズルいのは、私の方なんだよ……」
君に謝ってもらう資格なんて欠片もない。
出来る事なら、彼女の意思でこの世界を選んで欲しかったが。結果としては引き止められたのだから、もういい。
今、もし彼女の目がスッキリと覚めていたら、私を見て何を思うだろう。
呆れる?怯える?それとも……?
「ここは夢の世界の夢の夢……怖い夢は全て私が隠してあげよう」
眠るアリスの耳元に唇を寄せて、何度となく囁きかける。彼女が安心して、深く深く堕ちるように。
さあ目を閉じて、楽しい記憶(夢)だけをもう一度…何度でも辿っておいで。
夢と現実が入れ替わるまで。
この世界に愛されていることを実感するまで。
………もうこの世界にしか、君の居場所はないのだと思い知るまで。
ここはアリスの為だけの夢の檻。
君はもう、私の手の中に捕まった。
本来は誰もが自由に出入り出来る夢の世界。
だが、特別に編んだこの夢にだけは誰も近寄せはしない。現実への扉は硬く閉ざして、用済みになった金の鍵は捨ててしまった。
これで、もう誰にも邪魔される事はない。
例え、他の役持ちたちが束になったとしても、この夢には決して触れる事も壊す事も出来ない。
ここはもう、奇麗に歪んだ、私だけの楽園だ。
「……それでも、これは壊してしまうわけにはいかないな」
呟きに応じてふわりと浮き上がってきたのは、白ウサギが常に身に付けているはずの金の懐中時計。
時を止めたその針は、今はもうピクリとも動かない。
「……私だって、出来る限り彼女を歪めたくないんだよ……」
何を今更、とユリウス辺りなら言うかもしれないが。
現実の時をなかった事として完全に壊してしまう事は出来ない。それは彼女の存在そのものを傷つける。
歪みや綻びは後から修正出来ても、壊してしまった欠片が1つに戻る事は出来ない事だ。
だから、白ウサギから預かったアリスの時間は、彼女ごとこの世界に取り込んで溶かしてしまおう。
薄めてゆっくりと、今度こそ長い時間をかけて、彼女の中に浸透させる。
アリスをこの世界の一員とする為に。
「……だから、目覚めた後で怒らないでくれよ?アリス」
この世界から、そして私から。
君は、もう決して逃げられない……離れられなくしてあげるから。
「夢から覚めてもここは夢………だから安心して夢を見るといい。アリス」
微かに笑みさえ浮かべながら穏やかな表情で眠るアリスに、愛おしげにそっと口づけて。ナイトメアは満足げに秘かな笑みを浮かべるとパチンと指を鳴らした。
長い長い眠りの檻の中に2人の姿を隠して、ゆっくりとその場から溶けていく。
永遠か、刹那か。
いつ目覚めるともしれぬその時まで、2人だけの甘美な夢を共に見続ける為に……ーーー
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